鬼神法師 酒天!

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 斎は障子の前で深く息を吐いた。
 この障子の向こうには、爺がいる。竜と同じ寿命を持ち、代々の竜宮を見守ると言われている、生きる道標が。
「早い話が妖怪爺だ」
 いつだったか、そう言って拳骨を喰らった。
 斎が幼い頃に鬼と戦って死んだという両親の話も、爺から聞いた。斎にとっては、親代わりとも言える存在だ。
 先刻、飛車丸に問われ、足を向けたのがこの障子の前だった。本殿の奥、竜宮本家以外の人間が踏み入ることを禁じられた場で、今も開けるべきか迷っている。
「入りなされ、若」
 枯れた、しかしよく通る声がした。
 爺だ。
 斎が半ば諦めたように障子を開く。
「今戻った」
 斎が姿を現すと、翁は頷いた。しゃんと背筋を伸ばし、小柄ながらも威厳ある佇まい。白く長い髭は竜のそれに似ていた。
 斎が竜宮を出た頃から、変わらぬ姿のままだ。否、己が幼少の時から年をとった記憶がない。
「よう戻られましたな」
 労う言葉に棘がある。斎は敏感に感じ取った。素知らぬ振りをして、腰を下ろす。
「件の法師を連れてきた」
 翁はこくりと頷いた。
「さようで」
「口伝に続きがあると、何故言わぬ」
「この爺は初耳でございます」
 聞いた斎の顔が歪む。残りの口伝を、爺ではなく紫龍に遺した先祖の気持ちが多少わかるような気がした。
「御用はそれではありますまい」
 翁が言った。
「この翁、幼少の砌より若を育てて参りました。何を考えておられるのか、わかりますぞ」
 斎が肩をすくめる。
「俺が何か企んでいると?」
「そうでなければ、戻りませぬ」
 長老の鋭い視線が斎を貫く。
「よくわかったな。やはり翁には敵わんか」
 大仰に伸びをすると、斎は座り直した。開いた目は、もう笑ってはいない。翁の目を真っ直ぐに見つめると、観念したように言った。
「実は、環との祝言をあげる気になった」 
「否」
 翁は即座に否定した。やはり通用しなかったかと斎が嘆息する。
「若」
「俺は何も聞かん。もう決めたことだ」
 斎は立ち上がった。障子に手をかけたところで、翁が声をかける。
「若の意思は竜の意思、何人にも縛られませぬ」
 斎の手が止まった。その背に、翁が語り続ける。
「けれど、心置かれよ。若の傍に常に竜が居ります」
「ああ」
 斎が振り向く。その身を絡め取るように、竜が飛んだ。


 山吹は憮然とした顔で庭を眺めていた。
 案内された部屋から臨むのは、椿の紅が雪に映える、清流の囁きが心地良い庭だった。
「綺麗な庭ですね」
 空蝉が呟くように告げた。
「そうだな」
 面白くもなさそうに、山吹が答える。
「飛車丸様は、どちらへ」
「どうにも縁の場所があるらしい。そこへ行った。気になるなら貴様も行け」
「山吹様は」
「動く気にならぬ」
 むくれた顔のまま、庭を見つめ続ける。
 空蝉はしばらく、庭の椿と山吹を見比べていたが、やがてその場に腰を下ろした。
 さわさわと風が流れる。花の香り、水の音。空蝉は目を細めた。
 山吹の頬を撫でた風が、柔らかく香る。
 温かな、春の匂いだ。
「なんだ、ここにいたのか」
 斎が無遠慮に姿を現した。空蝉が腰を浮かせかけると、斎が手でそれを制した。
「丁度いい時に帰ったみたいだ。明日から祭りが始まるそうだ」
 浮き浮きとした調子で斎が告げる。庭を見たまま微動だにしない山吹に、首を傾げると、斎が歩み寄った。
「山吹ちゃん。嬉しくないの」
「ふざけた呼び名はよせ」
「祭だぞ、祭」
「長居する気はない」
 言うが早いか山吹は立ち上がった。行李を手に、今にも出て行かんばかりの雰囲気だ。
「我らがここにいる理由はない。早々に立ち去ろう」
 斎がその前に立ちはだかった。 
 山吹が斎を睨み据える。
「どうしたんだ。変だぞ」
 斎が怪訝そうに手を伸ばす。それが頬に触れる前に、山吹は告げた。
「貴様には家がある」
 斎の目が瞬く。
 山吹の脳裏に環の姿がよぎった。
「帰りを待つ者もいる。当てなく旅をする理由などあるまい!」
 言い捨てて、斎の横を擦り抜ける。瞬間、斎が山吹の腕を掴んだ。
「痛……っ」
 感じた痛みに、山吹が呻く。すれ違いかけた姿勢のまま、動けない。普段ならばいくらでも払えた手が、信じられぬほどの力を持つ。
「斎様!」
 空蝉が止めようとした矢先に、斎が静かに口を開いた。
「山吹ちゃん」
 常々の呼び名でありながら、そこには軽薄な余韻などまるでない。
 ただならぬ気配に、山吹は振り返った。
「空蝉も」
 その名を呼んだことで、斎は静かに微笑んだ。
「聞いてくれ。俺は、俺の意思で行く。そのためにここに来たんだ」
 穏やかな決意。
 憎らしいほどに澄んだ青い瞳は、揺らぎも迷いも見せない。
 捨てるつもりだ。
 山吹は直感した。
 ここにあるもの全て。
 慕う者も、護るべき者も、帰る家も。
 斎は、捨てるつもりなのだ。
 それがどれだけ大切なものか、こいつはまるでわかってない――
 山吹の内に、込み上げるものがあった。
「馬鹿も……」
「兄上! こちらへおいででしたか!」
 山吹が口を開きかけた途端、そこに踏み込む者がいた。
「辰信!」
 斎がその名を呼ぶ。同時に、山吹の腕を離した。離された山吹が、わずかによろめく。空蝉の差し出す手を借りる前に、彼女は姿勢を正した。
「あ、これ、弟の辰信。辰信、山吹に、空蝉。一緒に旅をする仲間だ」
 そこに山吹と空蝉がいることに、辰信は気づいていなかった。斎の言葉に、みるみる赤面してゆく。
「こっ、これは無礼をいたしました。申し訳ございません。初めまして。私は竜宮が二子、辰信と申します」
 目を丸くする山吹の前で、辰信は丁寧に頭を下げた。結われた黒髪が、さらりと流れる。細面の斎より、若干柔らかな輪郭をしている。人の良さそうな顔にも、生真面目さが表れていた。
「平素は、兄がお世話に――」
 辰信が礼を述べる。
 山吹は信じられぬ面持ちで辰信を見た。
 血が繋がっているのか、これが。この実直な男と、あの斎が。
「斎」
 山吹が呟く。
 先刻掴まれた腕を、無意識に抱いた。
「貴様が家を出たくなる気持ちもわかった。出来損ないなのだな」
「は?」
 斎の目が瞬いた。
 辰信が慌てて弁明した。
「山吹様、でしたか。いえ、いいえ! そのようなことは! 兄は、竜宮の血の中でも特に秀でて――」
「才の問題ではない。人として愚かであれば馬鹿と呼ぶ」
 山吹の言葉に斎が笑い出した。声の限りに笑っては、苦しいと腹を抱える。
「兄上!」
 淡々と見守る空蝉の前で、斎は目尻の涙を拭った。
「な、辰信。面白いだろ? 竜宮では得られん言葉だ」
「どういう意味だ」
 むっと山吹が言い返す。その耳下で、斎は囁いた。
「愛してるってこと」
「痴れ者が!」
 繰り出される山吹の拳を、紙一重で斎は避けた。風圧で、斎の髪が舞う。
「いつものことで御座います」
 絶句する辰信に、空蝉が厳かに告げた。


【其ノ拾壱・終】

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