竜宮の土地には、至る所に清流が流れている。川の瀬は竜の背、その流れは竜の身体と称する万物竜信仰。その流れを汲む竜宮が、川の姿に手を加えることはない。あるがままの姿で流れる川は、どこか活き活きしているようにも見えた。
その一つを眺めている山吹の顔は、相変わらず晴れなかった。吐く息が白く濁る。庭の椿の葉に残った雪の白さと混じりながら、山吹の息が溶けた。
先刻の斎とのやりとりもある。もう一つ。
今も傍らにいる辰信の意図を掴みあぐねてのことだった。散歩をしてくると部屋を出た山吹の後を、付いて来る。
「兄上は特別な才をお持ちだ」
辰信は言った。
「産まれた時から竜に愛されている。数多の修行を積んで竜を使う、これまでの竜使いとは根本的に異なるのです」
斎の素晴らしさを、説いて聞かせる。どうにも山吹が斎を誤解していると思ったようだ。
閉口しかけた山吹は、しかし口を開いた。
「お主とも、か」
山吹の言葉に、辰信が苦笑する。人の良さそうな太い眉が、困ったように下げられた。
「私には、兄上のような才はありません」
己の無力さを確認するかのように、辰信は掌を見た。子供の頃から、どれだけ修行を積んでも、かろうじて竜を呼べるだけだった。その傍らで、竜と戯れて遊ぶ兄。器が違うのだと、否が応でも実感せざるを得なかった。
「それでも竜を使うのだろう、なぜ誇らぬ」
山吹の言葉に、辰信は顔を上げた。
「お主が勝ち得た力だ。そうだろう」
ぽかんとした顔で、山吹をまじまじと見やる。
「……何だ」
不快さを隠そうとせずに、山吹が言った。慌てた辰信が弁明する。
「いえ、そう考えたことはなく」
「下らぬ」
山吹は嘆息した。
「あれは阿呆に見えるから余計に比べたくなるのだろうが、あれはあれで何ぞ苦労はあるのだろう。なかったのであれば、これからするのだ」
山吹の言葉に、辰信は言葉を失った。
斎は、竜宮の跡継ぎとして誉れ高かった。絶対に越えられぬものとして、常に辰信の前にあったのだ。
それを。
くすりと笑う辰信を、山吹が睨んだ。
「何だ」
「いえ」
山吹の眉が寄せられた瞬間、遠くで太鼓の音が響いた。
「あれは」
「祭りがあるのです。今宵は前夜祭で」
斎も同じことを言っていたと、山吹は回想した。
「立派な祭りだと、言っていたな」
山吹に見せたかったのだと。
辰信がにこりと微笑む。
「竜宮の民は祭り好きですから」
「そーそー、だから、楽しんでくれよな!」
本殿から下る階段から、斎が姿を現した。
「いつ……」
其の名を呼びかけた山吹の唇が、言葉半ばで止まった。
「斎様!」
斎の背後に、環の姿が見える。階段を駆け下りた環は、振り向いた斎の前で息を整えた。
「こちらにおいででしたか」
「環」
「折角の龍神祭、斎様と一緒に回らねば意味がありませぬ」
斎の衣の裾を指先で掴み、拗ねたように頬を膨らます。その可愛さは、山吹にはないものだった。
「環もご一緒させてください!」
環が山吹と辰信を見て言った。斎が困ったように頭を掻く。
「え、と……な、環」
ちらりと山吹を見やる、その視線が救いを求めている。
「案内は無用」
山吹が切り捨てた。
風に乗ってお囃子の音が届き始める。山吹は、軽快な音色とは対照的に、己の心が沈み行くのを感じた。
暮れ行く陽にあわせて、竜を象った提灯に火が灯り始めた。火を象る朱、木を現す緑、土を模す黄、水を示す藍。色とりどりの提灯が炎の瞬きを閉じ込めながら、往来を彩る。その下には、所狭しと夜店が並んだ。麓の村からやって来た住民たちが、ほくほく顔で餅や菓子を買う。遊びに興じ、その歩みが本殿まで至ると手を合わせて頭を下げた。底冷えのする山の夜にも関わらず、熱気に溢れる。
斎が豪語した通り、竜宮の祭りは派手だった。
「山吹様」
早足で行く山吹に、空蝉が声をかけた。
「何だ」
「お怒りですか」
「私が。なぜだ」
「そのように感じましたので」
ぴたりと足を止めた山吹が振り向く。空蝉を睨む瞳は普段より鋭く、唇は引き結ばれたままだ。その表情は怒りに分類するのだろうと空蝉は思った。
「私は……」
感情のままに開きかけた山吹の口が、空蝉の顔を見て止まる。
斎に許婚がいたこと。
なぜ腹が立つのだろう。
山吹は溜息をひとつ吐いた。
「貴様に言うても詮無き事よ」
これだけの祭りを見ても、心が動かない。不思議と色褪せて見える。
そこに斎がいないからだとは、思いたくなかった。
「あれは竜宮の長子。許婚がおるのは、当然のことだな」
風車を見た山吹が呟く。その淋しそうな横顔に、空蝉はしばらく目を離せなかった。
紫龍は目を細めた。
竜宮の本殿、その屋根に体を巻きつかせたまま、賑やかな祭りの光景を見下げる。春夏秋冬、それぞれの季節に行われる龍神祭は、元を辿れば紫龍のための祭りだった。常日頃、竜宮に加護を授ける龍神に感謝を捧ぐと。それが時を経るにつれ、人が愉しむものになった。そのことを不快に思ったことはない。
辰の子孫達らしいと、妙に納得しながら見守ってきたのだ。
人の子の変遷、それは紫龍にとって目まぐるしく変わるものだった。心を砕く相手も、砕く暇もない。それでも、竜宮の系譜の中で、竜と親しい者は必ず生まれ、そして紫龍の傍にいた。
「少し飲まぬか」
五層から成る本殿の屋根の一番上に腰掛けた飛車丸が、紫龍の前に大きな盃を置き、神酒を注いだ。自身の盃にも少々の酒を注ぎ、煽る。
ふ、と息を吐くと、微笑むような面持ちで目を細めた。
「良い夜だ」
遠く太鼓と囃子の音が聞こえる。人々の声はさざめきとなり、提灯の火は柔らかな光となって飛車丸に届いた。
冷気を含んだ風が頬を撫でる。それすらも、心地良かった。
己の隣に腰掛ける男を、紫龍は不思議そうに見た。
かつて、男の姿を見たことがある。竜宮の牢で己が身に宿した鬼と対峙していた人間。「あれはひどい阿呆なのだ」と辰は言っていた。
やがて、全身に傷を負った辰が数多の民を連れて竜宮に戻った日。
辰は泣いていた。歯を食いしばり、何かを睨むように目を閉じることもなく。静かにその頬を涙が流れていた。傷への痛みではない、と紫龍は思った。
それから、延々と男への呪詛を聞いた。「あの阿呆が」と何度も言っていた。
風の噂で、朱棍の法師が人を助けたと聞いた時の辰の表情。
生涯忘れまいと紫龍は思った。
阿呆、と呟いた口の端が震えていた。
子を成し、己の寿命を悟った時、その子等への伝言を頼まれた。散々悪態をついた後に、ぽつりと「許す」と言った。そしてやはり「あれはひどい阿呆なのだ」と。
この男が。
飛車丸の横顔を、紫龍は眺めた。
遠目に幾度か見かけただけで、まじまじと見つめたことはなかった。
靡く黒髪も、伏せる瞳も、その肢体も。
人だ。なんの変哲もない。
少々鬼臭いが、取り立てて騒ぐほどのことでもなかった。
「辰は」
飛車丸がぽつりと呟いた。
「良い男だったな」
飛車丸の黒髪が夜風に流れる。
紫龍は返事の代わりに、神酒に口をつけた。
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