鬼神法師 酒天!

  表紙



「昔に戻ったようです。幸せ」
 とは、環の弁だ。
 斎と辰信の手を握り、零れるような笑みで往来を進む。軽やかな足取りに、結われた黒髪が揺れ、辺りに花の香りが散った。
「そういえば、昔はよくこうやって三人で巡ったな」
 斎が思い出したように告げた。
 本家の斎と辰信、分家の出の環は、年近いこともあって仲が良かった。竜宮が血筋に五月蝿い家ではないせいだろう。あるいは環の人柄か、いつの間にか兄妹と見まごう程に、三人は傍にいた。十にも満たない頃は、よく手を繋いで祭りに行ったものだ。
「兄上は、飴を買うと、すぐに紫龍の傍に行ってしまいましたね」
 辰信が言った。
「あそこに登るのも竜の手伝いがいるものだから、私も辰信様も置いていかれてしまった。環は淋しかったです」
 斎は、眺めている紫龍こそ寂しいのではと思ったのだ。幼心ゆえの気遣いだったが、紫龍は目を細めて歓迎した。
「風車は鼻息で壊されたな。鼈甲飴は気に入ったようだったが、あいつに食わせるとなると数が足りん。終いにはどれだけ喰う気だと俺が爺に怒られた」
 斎が思い出したように視線を上げる。本殿の屋根で、紫龍と盃を交わす飛車丸の姿が見えた。
「あの方は」
 辰信と環が同時に口を開く。
「鬼を身に宿していると聞きました」
 辰信が慎重に言った。
「そうだな」
 斎が頷く。
「今も、ですか」
 環の問いにも、斎は頷いた。
 飛車丸と紫龍の姿を見上げる。浮世を見下ろすその姿は、平生の在り方そのままにも見えた。
 人ならぬ身の、その置場。
 そこに、行きたい。
 渇望にも似た想いが頭を擡げる。斎は目を閉じた。



 祭りは三日三晩、夜通しで催される。
 次代の襲名がある場合は、三日目の夜に行われるのが常だった。それを以って龍神のさらなる加護を願い、祭りは終る。
「わかってる」
 耳を穿ちながら、斎は爺に投げやりな言葉を返した。
 説教と説得を受けること一刻。何度「わかった」と言っても爺が納得する気配は見られなかった。
「先代亡き後、先代の弟君が竜宮の長となられた。それも若が世を見たいと言った為。戻られたからには、筋を正すべきですぞ」
「だから、わかってるって。筋は通す」
 先ほどから何度同じ問答を繰り返したかわからぬ。斎の顔にも疲労が見られていた。
「我流の筋ではまかり通りませぬ」
「通すね」
 斎が言った瞬間だった。奥の襖が開けられる。
 そこに、純白の法衣があった。
 斎の目が見開く。
 瞬間脳裏を掠めた思い出。この法衣を着、襲名を受けた際、灰色の空から舞う粉雪の中で父が立ち上がる姿を見た。
 覚えていることすら、忘れていた。
「これ以上は申しませぬ。若、ゆるりとお考えくだされ」
 そう言い残して、爺は部屋を出て行った。
 斎はしばらく、その場に座り続けていた。
 純白の法衣。雪のような白さを持つ布地に、やはり白の糸で龍神の姿が編みこまれていた。
 其の丈も、身頃も、全て斎に合わせて作られていた。
 法衣の前に、斎が立つ。
「なんつーか、嫁入り衣装みたいだな」
 溜息をついた斎が、頭を掻く。
 事実、そうなのだろう。
 これを着れば、竜宮を継ぐ。
 その長として民を導き、龍を繰る。夫婦のように、永久に、永久に。
「まあ、今までと変わりないっちゃー、そうなんだが」
 再び小さな吐息が斎の口から紡がれる。視線を落とした拍子に、薄汚れた己の法衣が目に入った。群青を基調とした法衣。出来るだけの手入れはしてきたつもりだったが、疲弊感は隠しようもない。それを見た斎の唇が笑んだ。
 山吹や空蝉の衣もそうだ。飛車丸の衣に至っては、あまりの襤褸さに見兼ねた村人が差し入れをくれるのだと言っていた。あれがなければ、今頃どうなっていたかわからぬと真面目な顔で言った飛車丸に、斎は吹きだしたものだった。
 異形となった飛車丸、鬼姫と呼ばれた山吹、人ならぬ身の空蝉。
 あの中で竜を呼び、恐れられたことも、崇められたこともない。
 ただ斎は斎としてそこに在った。そういう場所だった。
 斎の目が細められる。

 どれだけ時間が過ぎても、その指が純白の法衣に触れることはなかった。



 山吹が出立を決めたのは、もう祭りが終るという日の朝だった。
「今日の夜に、襲名の儀があると聞いた。我らがいては、枷になろう」
 そう言う山吹の顔を、空蝉がじっと見つめる。
「……なんだ?」
「いえ」
 不機嫌そうに眉を顰める山吹に、空蝉は頭を振った。何を言えばいいのかわからない。ただ、山吹が本心から告げていないような気がしたのだ。
「それで良いのか」
 代わりに聞いたのは、飛車丸だ。
「無論」
 言った山吹が行李を担ぐ。それが合図になった。

「世話役の女房が来た時には、皆様すでに」
 恐縮しきりながら説明する女房を斎は手で制した。溜息をつきながら、無人となった客室を眺める。整然と片付けられた部屋は、初めから人などいなかったかのようだ。
「全くなあ」
 まあ、らしんだけどもと呟いて、斎は困ったような笑みを浮かべた。
「人の話を聞けっつーのに」
 苦笑する斎の周りを、竜が飛ぶ。頬を寄せた小さな竜に何事か言付けると、竜は了解したというように輪を描き、空へと登って行った。


 松明の火が闇夜を切り取る。煌々と燃える明かりの中に、白い天幕が映えた。
 その中央に、翁が立っている。
 炎以外の全てが白く彩られた儀式の場には、環や辰信、翁を初めとした竜宮の人々、そして麓の村人たちの姿があった。
 無音の中で、清流の音だけが聞こえる。
「これより、襲名の儀を行う!」
 翁の声が当たりに響く。
「当代、竜生、出ませい!」
 名を呼ばれた現当主が立ち上がる。斎の叔父に当たる男は、辰信に似た静かな雰囲気を纏っていた。
「次代、斎」
 斎の名が呼ばれた。
 翁の声が夜の静けさに吸い込まれていく。
 それでも、壇上に斎が現れる気配はない。
 次第に場がざわつき始めた。
「まさか……」
 翁が懸念したその時だった。
「次代は辰信に!」
 大きな声がした。皆が声のした方を見やる。高くそびえる杉の木、その枝の上に、斎の姿があった。普段と変わらぬ群青の法衣を纏っている。
「兄上?」
 叫んだのは、辰信だ。信じられぬという顔をして、斎を見やる。
「ごめんなー、やっぱ俺、性に合わんわ」
 辰信に詫びるように、斎が掌を顔の前で立てた。
「しかし……」
 辰信が言い募る。
「環は、環はどうされるのです!」
「辰信様……」
 環が辰信を見上げた。
「その娘が慕ってるのはお前だ。竜宮の跡継ぎと夫婦になると決まっているのなら、丁度いいじゃないか」
 環と辰信が顔を見合わせる。それは一瞬のことだった。
「し、しかし……!」
「お前は言ったな。俺は違うと」
 斎が笑った。
「其の通り、俺は竜に似ている。ならば縛られるのも苦痛だとわかるか?」
 そこまで言うと、斎はすっくと立ち上がった。
「じゃ、そういうことで。皆息災でな!」
 朗らかに告げると、斎は杉の枝から飛び降りた。着地する体を、風の竜が抱きとめる。その姿を見た斎が目を細めた。
「もう少し、一緒に居てくれな」
 淋しげに告げる。その呟きは、風に消えた。


【其ノ拾弐・終】

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