足を進めると、踏まれた枝が乾いた音を立てた。
山吹の口から吐かれる息が白く濁る。ほんのりと上気した頬には、うっすらと汗が滲んでいた。
「山吹ちゃん、持ってやろうか、それ」
斎が山吹が背負う行李を指差す。
「いらぬ」
言葉短く山吹は答えた。その瞳が険しく細められる。
「馬鹿だ、貴様は」
「まだ怒ってんのか」
昨晩、野営をしようと一行が腰を落ち着けた途端、斎が現れた。
「やあ、見失わなくてよかった。竜に居場所を聞いてさ」
と笑う斎に、山吹は拳をくれたのだ。
「何を考えているのだ! 貴様は!」
なお激昂する山吹を宥めたのは飛車丸だった。
「本人が決めたことだ」
そう言って、静かに笹でたてた茶を飲む。
「斎様もどうぞ」
空蝉が湯気の立つ椀を斎に差し出した。憮然とした山吹が顔をそらす。
怒っているのは己一人。飛車丸も、空蝉も、斎の決断を受け入れている。
馬鹿らしい。
山吹の心から怒りが消えていった。
が、燻ってはいるらしい。
元々愛想の良いほうではないが、斎が合流してから、山吹の眉間の皺が消えることはなかった。ずっとこの調子なのだ。
まいった、と斎が頭を掻いた時だった。木立の中に、藁葺き屋根の端が見える。
「お」
斎が足を早めると、その先に民家があった。ところどころ朽ちている。もう何年も使っていないのだろう。欠けた屋根の先に鳥が巣を作っていた。
「ちょうど良い。ここで休むか」
飛車丸が言うと、山吹は縁側に行李を降ろした。途端、
「お客人ですか」
無人と思われた家の襖に影が宿り、すっと襖が開いた。
山吹が顔を上げる。
病的なまでに青白く細い体をした女が、そこに立っていた。不自然なほどに艶やかな黒髪、釣りあがった瞳は金色で、唇は血のように紅い。一目で人ではないと知れた。
身構える山吹を、飛車丸が制す。
「な……」
「一晩宿を借りたい。良いか」
飛車丸は穏やかに告げた。
「まあ、まあ、法師様」
こんこんと鳴いた狐は、くすくすと笑いながら尻尾を出した。
「此処は狐の寝宿。化かされますわよ」
「構わぬよ」
飛車丸が言うと、狐は目を細めて満足そうに笑った。それから、くるりと宙に飛ぶ。一際高く鳴くと、その姿は掻き消えていた。
「良いのか」
山吹が聞く。
飛車丸は頷いた。
「山の狐だ。大した悪さはすまい」
「むしろ楽しみだな」
斎がからからと笑った。
空蝉が無言で狐の消えた宙を見つめている。
「どうした?」
「狐を初めて見ました」
衣を着ているのですね、と空蝉が呟く。
「あれは化けているのだ」
山吹が言った。
「化けている……」
空蝉が己の体を見た。
「私と等しく、ですか?」
「獣ながらにまじないを使う。悪戯で人を騙しもする。命までは取るまいが、あまり笑えぬこともするだろう」
言いながら上がりこみ、障子を開けた山吹の眉間に、深い皺が刻まれた。
囲炉裏には鍋がかけられ、くつくつと煮立っている。その周りを囲むように、串刺しされた川魚が焼かれていた。山菜や獣肉が煮込まれた鍋は、良い匂いを漂わせている。それから、人数分の座布団。奥の間には、すでに布団が敷かれているのが見えた。
朽ちていたはずの柱も障子も、今建てられたばかりのように輝いている。
「大した歓迎振りだ」
くすりと笑った飛車丸が、大股に足を踏み入れる。囲炉裏の傍に座ると、鍋をゆっくりと覗き込んだ。
「ありがたく頂こう」
手を合わせる飛車丸に、酒天が抗議した。
(ふざけんな! 狐のメシなんざ喰えるか! 何が入ってるかわかったもんじゃ……)
「妙なものが入っていれば、わかるだろう」
気にせぬそぶりで、椀に汁を注ぐ。
「じゃあ、俺はあんたが食うの見てからにするわ」
斎が面白そうに腰を下ろす。山吹ちゃんも座りなよ、と手招かれ、山吹は立ち尽くした。
「では、私は外を見ています」
言った空蝉が縁側に歩み出る。暮れかけた夕陽が、山を茜色に染めている最中だった。
綺麗だ。
黄金にも似た光が、木々を照らす。受ける緑の、鮮やかなこと。
木立の中に暗く深い影が落ちる。それを飽かずに眺めていた、その時。
影の中で何かが動いた。
空蝉がなんとなしにそちらを見ると、小さな子狐がこちらを見ていた。
目が合う。
びくりと震えた子狐は、しかし、逃げようとはしなかった。
小さくつぶらな瞳が空蝉を見る。
「……こん、こん」
空蝉は言ってみた。
確か、先ほどの狐はそう鳴いていた気がする。
「もっと高く鳴くのですよ、こう」
いつの間にか先ほどの狐が傍にいた。相変わらずの人の姿、艶やかな衣が白い肌に映える。狐は、空蝉に聞かせるように高く鳴くと、しゃなりとして向き直った。
「狐が怖くはありませぬか」
「生憎」
空蝉は呟いた。
「獣に怯える心は持ち合わせておりませぬ」
「まあ」
ほほ、と狐が衣で口元を押さえる。妖艶な笑みだった。
「その鈴の兎も?」
狐の目線が空蝉の袂を探る。音を鳴らさぬよう、布地に包まれた鈴を見透かしたようだった。
「以前、別の山で」
此の子の主を助けられなかったと空蝉は言った。兎から外した鈴は形見になってしまった。山に放ったあの兎は、どうなったろう。
「恩義に感じているのですね。傍にいますよ」
くすくすと狐が笑う。指差されるままに己の肩を見た空蝉は、首を傾げた。自分には何も見えない。
「あれは」
空蝉が顔を上げる。その視線の先に、子狐がいた。狐の目が細められる。
「私の子」
狐の言葉に、空蝉は頷いた。
「他の子は皆食われました。人に、鬼に」
狐の周囲の空気が渦巻く。
「皆、獣のことなど顧みぬ。此処を護るのは、あたくしの仕事」
空蝉は無言で狐を見つめた。
その目には、しっかりと怒りと恨みが篭っている。
人への、鬼への。
「なぜ、我々を招いたのです」
空蝉の問いに、狐は目を細めた。
後ろで囲炉裏を囲んでいる飛車丸を見つめる。
「かつて、あの法師様が助力して下さいました」
そのような気配は感じられなかったと空蝉は思った。それとも、飛車丸は覚えていないのだろうか。
「忘却は人の常。あの法師様も例外ではありますまい。あたくしも昔は何の力も持たぬ子狐でした。それが化けて出るようになるまでの歳月、短くはありますまい」
狐が微笑む。そんなものだろうかと空蝉はぼんやりと狐を見つめた。
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