「助かった! 野宿には飽き飽きだったんだ!」
叫んだ斎がふとんに飛び込む。
「先日、竜宮に行ったばかりだろう」
山吹が行李を開ける。中からいくつかの道具を出した。
「今まで何回野宿したと思ってんだ。一生分木の上で寝た気がするね」
「貴様と言う奴は」
山吹が嘆息する。その濁りが消えぬうちに、彼女は立ち上がった。
「空蝉」
声をかけて、縁側に行く。
月の光を一身に浴びて佇む少年の姿が、そこにあった。
「山吹様」
「体の具合はどうだ」
「はい」
山吹の問いに、空蝉は己の身体を眺めた。浄化された神木から成る偽りの身体。あちこちに歪が生じているのは、内側から腐食しているせいだろう。よく使う腕は、もう罅割れていた。
己は本来、万物を腐らせる腐鬼なのだ。
空蝉の目が細められた先を山吹が追う。罅割れた腕を見た山吹は、空蝉に声をかけた。
「あちらで繕ってやる。来い」
言って、空いている部屋へと歩き出す。
後を追う空蝉の背後で、狐が笑っている気配がした。
「旅暮らしには慣れたか」
空蝉の腕を繕いながら、山吹が問うた。焚き火の揺らめきが影を添える。
「はい」
「つらいか」
「いいえ」
空蝉は答えると、変わらぬ表情のまま、続けた。
「私はずっと、花や木々に触れたいと思っていました」
ぽつりと紡がれた少年の言葉に、山吹は手を止めた。
「叶ったのだろう」
「空海様が触れられる体をくださいました」
お陰で、川に入っても己のせいで水が腐ることはないと空蝉は告げた。
「良かったな」
言った山吹が糸を繰る。直したばかりの腕の出来を、掲げて確かめた。
満足すると、空蝉の肩に嵌めてやる。それから、念を込めた糸で繕い始めた。
「おかしいのです」
山吹に肩を縫われながら、空蝉は言った。
「なにがだ」
山吹が答える。
「願いが叶ったというのに、私はまだ足りぬのです。花に触れ満足し、木々に触れ満ち足りたはずなのに。まだ触れたいと思う」
「良いではないか。内から沸く欲、不思議ではない」
言った山吹が糸を結んだ。小声でまじないをかける。空蝉の腕から柔らかな芽が吹き出し、肩と繋がった。空蝉の着物を直しながら、山吹が問うた。
「今は何に触れたいのだ」
空蝉が顔を上げる。至近距離で山吹と目があった。
「山吹様です」
ぱちり、と薪が爆ぜる音がした。二人の影が揺れる。
空蝉の言葉に、山吹の目が瞬いた。
「な……」
その唇が開くより早く、空蝉が困惑気味に首を傾げた。
「なぜでしょう?」
自分でもわからぬのです、と空蝉が告げた。
「おかしいのです。飛車丸様にも、斎様にも、そのように感じたことはありません。初め、山吹様が女人だから珍しいのかと考えました。けれど、空海様と暮らした町にも、先だって立ち寄った竜宮にも、数多の女人がおりましたが、そのようには思いませんでした」
真剣に考え込む空蝉に、山吹は言葉を失った。
「山吹様」
相変わらず感情のこもらない声のまま、空蝉は山吹を呼んだ。
「なんだ」
山吹の頬が強張る。
空蝉は、山吹をじっと見つめながら聞いた。
「私は……」
いやに鼓動が耳につく、と山吹は思った。
目の前の少年の気持ち、そんなこと考えはしなかった。
「私は、ついに脳が溶けてきたのでしょうか」
深刻そうに告げる空蝉の前で、山吹はがくりと手をついた。
「山吹様?」
「いや……」
寄ろうとする空蝉を手で制する。頭痛がするのはなぜだろう。
「それは、だな……」
「俺が教えてやろう!」
障子を勢いよくあけた斎が、大股で入り込んだ。
「斎、貴様!」
立ち聞きを咎める山吹の前で、空蝉を軽々と小脇に担ぐ。
「もう終ったんだろ? 借りるぞ」
きょとんとする空蝉の顔を見て、斎がにやりと笑った。
「色々、色々教えてやる! そーだな、まずは」
言った斎の後頭部を、薪が直撃した。倒れる斎の腕から、するりと空蝉が抜け出る。
「いらぬ知恵を吹き込むな」
山吹が呟きながら、囲炉裏の灰を手で払い落とした。
それから、ふと空蝉の視線に気づく。
問いの答えを待っているのだ。
居心地の悪さに視線をそらした山吹は、しばらく後、咳払いして言った。
「案ずるな。それは病ではない。心揺れる、それも自然の摂理だ」
「しぜんの、せつり」
空蝉は、噛み締めるように呟いた。
早い話が色恋沙汰じゃねーかと身も蓋もない見解を告げたのは、酒天だった。
一行が寝静まった後、空蝉が火の番をしていると、時折、起き上がることがある。今日の飯もまずかっただの、今日の鬼は雑魚だっただの、話すことは不平不満ぐらいだが、それでも同じ鬼を相手に話せるだけ気が紛れるらしかった。
「色恋、ですか」
「あの女を犯してぇとか思うんだろ。犯せ犯せ、やっとけ」
酒天の言葉に、炎に背を向け寝転んでいた山吹の拳が震えた。村を追われて以降、人の話し声で目が覚める習慣がついている。空蝉と酒天のやり取りも何度か耳にしているが、深く追求したことはなかった。
しかし、今日の話題は別である。
此の場で滅してやろうかと、指先に力が入った。
「それは……」
空蝉が考えるように言った。
炎が少年の影を長く伸ばす。その輪郭は夜に溶けた。
「思いませぬ」
酒天の片眉が上がった。
「じゃ、どうしてーんだ」
興味深げに身を乗り出す。
「喰いてぇか? 腸かっさばいて骨までしゃぶる、惚れた女は極上の美味ってヤツだ」
外道が!
山吹の我慢が臨界に達しようとした時、空蝉はぽつりと呟いた。
「笑わせとう、ございます」
山吹の拳から力が抜ける。
「はあ?」
酒天は全力で脱力した。
「あの方の笑顔を、見たことがないのです」
まるで大切なものを扱うかのように、空蝉は山吹のことを告げた。
「常に凛々しくいらっしゃる。聞けば、随分苦労されたご様子。鬼への憎悪も一際ですが、退治の際には、いつも悲しそうな顔をされています」
「俺様には般若に見えるがな」
酒天が残っていた干物を齧った。あんな女のどこがいいかさっぱり理解できない。元より理解する気もないが、空蝉の希望は酒天の想像を超えていた。
「で、笑わせたらどうするんだ」
酒天の言葉に、それまで炎を見ていた空蝉は顔を上げた。
「どうする、とは」
「抱くのか、喰うのか」
焦れたように酒天が言う。
「何も」
空蝉は言った。
手にした枝で、薪を少し混ぜてやる。ぱちりと音がして、炎が揺らいだ。
「笑顔が見たい。ただ、それだけに、ございます」
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