鬼神法師 酒天!

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 欠けることの無い満月が、夜の輪郭を浮かび上がらせる。
 静寂に包まれた山。木々の合間に闇が宿り、生き物は皆眠りについている。時折響く虫の声が、静けさに拍車をかけた。
 その中を、ゆったりと移動する者があった。
 白銀の髪が月光に照らされる。人に似た姿、纏う藍染の衣は、よく夜に馴染んでいる。けれど、進むにあわせて止む虫の音が――額から生える二つの不揃いな角が、それが鬼であると告げていた。
「お待ちください」
 掛けられた声に、久遠が目を細める。
 眼前に、ふらりと女人が現れた。
「狐か」
「今宵の山は客人を迎えております。これ以上はどうかご勘弁を」
 女がうなだれて言った。覗くうなじが艶かしい。
「聞く耳持たぬな」
 久遠が構わず歩を進める。と、その衣が炎に包まれた。
「化かしますわよ」
 くすくすと狐が笑う。
「下らぬ」
 久遠の吐いた息で、炎は掻き消えた。
 指先を繰る。狐が姿を翻すと、そばにあった木が裂けた。
「畜生風情が、図に乗るな」
 久遠の言葉に、狐の笑い声が被る。張り詰める気配に、木々がざわめいた。


其ノ拾四「少年の、淡き心【後】」


 ぴくり、と空蝉の指先が動いた。
 焚き火に薪を足す、その最中のことだった。
 山が殺気立っている――鬼が来たのだ。
 空蝉は、ちらりと皆を見渡した。皆、寝入っている。先ほどまで管を巻いていた酒天は、鼾までかく始末だ。
 己が行く。
 空蝉が腰を浮かしかけた時だった。
「良い」
 言ったのは、飛車丸だった。
「私が行こう」
 眠気の余韻すら見せず、飛車丸は静かに立ち上がった。手早く法衣を纏い、朱棍を手にする。
「飛車丸様」
「ここを頼む」
 戸を開けると、山の冷気が飛車丸を包んだ。白い息に、澄んだ空気。しんしんと冷えるような山の気配も、どこか懐かしかった。
 山を駆け下りる。
 鬱蒼と茂る木々の影が、記憶の扉を開いた。
 あれは、いつだったろう。
 遥か昔、飛車丸はこの山に立ち入ったことがあった。
 化け狐が出る、と麓の村人に懇願されたのだ。
「山へ近づくと、狐が化かすのです」
 これでは山に入れぬと村人は告げた。あの山には、街道が通っている。避けるわけにはいかぬのだと窮状を訴える村人に、飛車丸は頷いた。
 狐の話を聞こうと山に立ち入る、その途端に周りの木々がざわめいた。
「お立ち退きください。ここは、私の庭」
 女人の姿を借りたそれは、狐だとすぐに気付いた。病的なまでに青白い肌、目の縁だけが赤く色付いている。
「待て。私は法師だ。お主の話を聞きに参った」
「話……?」
 狐が首を傾げた。
「お主が化かすと村人が難儀しておる。理由を知りたい」
「聞いて、どうするのです」
 呟くように、狐は言った。憎悪を込めた様な瞳が、冷徹に飛車丸を映す。
「わからぬ。聞いた上で決める。お主の悪いようにはせぬつもりだ」
「世迷い事を……!」
 そのようなことがあるわけないと、狐は吐き捨てた。
「私を調伏しに来たのだろう! それともその棍で打ち据えにか!」
「違う、私は……」
 言いかけた飛車丸の身を、炎が包む。狐の仕業だと、すぐに知れた。
「立ち去れ、人間!」
 牙を剥いた狐が叫ぶ。
 衣が焦げ、皮膚が焼ける。頬がちりちりと痛んだ。
「わかった」
 炎に包まれたまま、飛車丸は言った。
 ゆっくりとした仕草で、朱棍を手放す。乾いた音を立てて、棍は地面に転がった。
(おい!)
 身の内で酒天が叫ぶ。飛車丸の心は決まっていた。
「私はお主の話を聞きに来た。断じて危害を加える為ではない。信じられぬと言うのなら、存分に試すが良い」
 そう言って、その場に腰を下ろす。静かに座禅を組むと、目を閉じた。
 炎を払おうともしない姿に、狐の拳が震える。
「おのれ……!」
 怒りに呼応するかのように、狐火が数を増す。ひとつ、ふたつと増える炎にも、飛車丸は動じなかった。身動きひとつすることなく、無言のうちに狐の炎を受けた。
 やがて狐が息を切らし始めた頃、頼りない鳴き声がした。
 飛車丸の傍に、小さな子狐が駆け寄る。
「あっちへお行き」
 とまどうように母を見た子狐は、飛車丸の顔を見てから、母の着物の裾に潜り込んだ。
 狐の言葉を聞いた飛車丸は、微笑んだ。
「成程、お主にも護るべきものがあったのだな」

 宿を借りたあのあばら家は、その時に建てたものだ。
「山には、人も鬼も来るだろう。あれだけの呪いを使えるのならば、上手く化かすが良い」
 村人の手も借りず、一人大工仕事をする飛車丸を、狐はまだ不審そうに見ていた。
「罰さぬのか」
「何故」
 言いながら呪いをかける。鬼や人に追われた時、この塒が親子を護るよう。温かな光が、家に満ちるのを、子狐が不思議そうに見ていた。
「礼は言わぬ」
 忌々しげに狐が言った。
「求めておらぬ」
 では、と立ち去る。
 あの日も、今日のようによく冷えていた。



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