闇を裂く様に上がる炎で、飛車丸は狐の居場所を知った。
近づくに連れて、違和感を覚える。
木の枝が、随分折れている。深く残る幹の傷、足元の雪は泥と混じり溶けている。
走り行く中で、再び炎が上がる。
(厄介そうだな)
欠伸を噛み殺すような気配が、己の内からした。
「酒天?」
なにか不快に思っている。それが飛車丸に伝わった。
(わかんねーか、この気配)
瞬間、脳裏に過ぎった久遠の姿に、飛車丸が足を止めた。
「まさか……」
呟いた途端、木の幹が割れる音がした。
背後の大木が倒れてくる。飛車丸は地を蹴った。
轟音が響き、雪と土が辺りに舞う。
「おお」
感心するような声が、闇からした。
全身の血が騒ぐのを、飛車丸は感じた。
「かような場所で出会うとは」
「久遠……!」
飛車丸が朱棍を構える。
雲から出た月が、その姿を照らした。艶やかな白銀の髪が夜に靡く。
その足元に横たわる狐の姿に、飛車丸の目が見開いた。
「貴様……!」
「成程、客人とは一つ角、お主のことか」
薄く笑った久遠が、狐の頭を踏みつけた。
「獣の歓待を受けるとは。堕ちたものよ」
「その足を離せ!」
飛車丸が叫ぶ。刹那、満月を遮る影が久遠に降りかかった。
突然現れた影に、久遠が振り向く。
見れば、高く跳躍した空蝉が、札を袂から抜いたところだった。
そのまま怯むことなく、久遠へと札を叩きつけようとする。無言のままに久遠が身を引くと、その背後に飛車丸の朱棍が迫った。
ゆったりと避け、髪の毛の先を掠めさせる。と、久遠は目を細めた。
「面白い」
まだ茂みの中に、幾人かの気配がする。
白銀の髪を数本切ると、久遠は息を吹きかけた。呪いを持つ吐息に触れた髪が、見る間に巨大な鬼となる。乳白色の肌、額から覗く三本角。
「白鬼か!」
飛車丸の朱棍を、白鬼が緩慢な動作で受けた。その最中に、久遠が身を翻す。
「待て!」
叫ぶ飛車丸の前に白鬼が立ちはだかる。掴みかかる手を、朱棍で払いのける。すぐに次の鬼の手が伸びた。足が、止まる。追いかけられない。飛車丸は歯噛みした。
あそこにいるのは、敵の鬼だ。
決して許すまいと誓った。
その姿が、夜の闇に飲まれてゆく。
「久遠!」
闇を裂くような飛車丸の絶叫が、山に木霊した。
狐をそっと抱いた空蝉は、傍らの茂みに身を寄せた。まだかすかに息がある。そっと木の根元に下ろすと、治癒の札を置いた。温かな光に、狐が息を漏らす。
この分なら大丈夫だろう。空蝉は、ほっと息をついた。
それから、茂みの中に斎と山吹の姿を認めると、歩み寄る。声をかけようとしたところで、斎が唇に指を立てた。その指が、山吹を示す。
空蝉は、初めて山吹の異様な気配に気づいた。
肩を押せば崩れそうだ。驚愕に見開かれた瞳の前に、飛車丸と戦う白鬼の姿があった。
「あの鬼は……鬼を、産むのか」
呻くように山吹は言った。
先刻の久遠の姿が、脳裏に刻みついている。髪を切り、息を吹きかけた。ただ、それだけで。
「みたいだな」
斎が答える。
途端に、山吹の目の色が変わった。
「逃さぬ!」
「待て、山吹ちゃ……」
「桜花!」
止める斎に耳を貸さず、山吹は桜花を繰った。その背に飛び乗ると同時に駆け出す。
「ちっ」
斎が竜を繰ろうとした矢先に、空蝉も駆けていた。
「私が」
それから、ちらりと横目で飛車丸を見る。
「俺はあっちを手助けする。連れて行け、守護だ」
言った斎が竜を飛ばす。小さな竜は、空蝉の腕に巻きついて、それから身の内に入るかのように消えた。
闇に溶けるように消えた久遠を追って、桜花は駆けた。深夜の山は、どこに行っても闇が広がるばかり。それでも、その暗がりの中であの鬼が薄笑いを浮かべているかと思うと、山吹には我慢ならなかった。
吾郎さ、吾郎さ。
白い鬼に食われたお前、忘れるわけがない。
それを産む、久遠。
「許さぬ……!」
怒りにかられ、無我夢中で指を繰る。木の枝が頬を切っても、気付きすらしなかった。
その姿を、空蝉は淋しそうに見つめた。
「見失ったか」
山吹が息をついた。切立った崖に着いたのだ。左右に道が別れている。
「私は、こちらに」
かすかに鬼の気配を感じた空蝉が、先に言った。
「わかった」
山吹が頷く。
「何かあれば呼べ」
「承知致しました」
その言葉を合図に、二人は別れた。山吹は左手へ、空蝉は右手に曲がる。しばらく行った先で、空蝉は目当ての姿を見つけた。
空海の庵で、その姿を見たことがある、鬼。
形は人に近く、その心は程遠く。
久遠。
空蝉の視線が険しくなる。
今ならば、声を上げれば山吹は気付くだろう。呼べ、と言われた。その言葉に従う気はなかった。理由はわからない。迷う心もない。
久遠が空蝉に気付く。
見下すような笑みを浮かべ、振り返る。
空蝉は、無言で袂に入れた札に手を伸ばした。
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