鬼神法師 酒天!

  表紙



「人飼いの鬼か」
 珍しいものを見るような目で、蔑みながら久遠は告げた。
 空蝉の周りを、風が渦巻く。
「良く出来た身体だ。主の正体を巧く隠しておる」
 久遠が扇を振る。同時に、空蝉は地を蹴った。木の幹を蹴り、久遠に飛び掛る。
 空海に託された札を叩きつける。
 久遠の額に触れる直前に、空蝉の動きが止まった。
 球状の結界が久遠を護っている。力の拮抗を示すかのように、札が揺れ、あたりに衝撃が走った。
 空蝉が呪いを口にする。
 久遠が薄笑いを浮かべた瞬間、札が裂け、指先が割れた。
 掠めた破片は空蝉の頬を切った。
 大きな皹が甲に入る。
 弾き飛ばされた空蝉は、身を翻して着地した。
 その瞳が久遠だけを映している。無言のまま、空蝉は袂から再び札を出した。
「無意味な」
 久遠が浅く嗤った。
 空蝉の眼光が鋭さを増す。
 これは、空海が作った札だ。
 この身でも、鬼を退治できるよう、空蝉の為に筆を取り、祈りを込めた。
 祈りとはなんだろう。
 空蝉は、不思議な気持ちで札を作る空海を見ていた。
 心を込めて硯を擦る。想いを込めて筆を走らせる。
 そこに願いがある、それだけで、ただの紙と墨は、鬼を駆逐する力を持つ。
 札を持つ空蝉の手に、力が篭った。
 願いとはなんだろう。
(山吹様――)
 空蝉の脳裏に、先刻の山吹の姿が過ぎった。
 あの人を、鬼に会わせてはいけない。
 会えば、戦うだろう。迷わず、何も顧みず。己の身の事など構いはしない。
 それを何故悲しいと思うのか、空蝉にはわからなかった。
 ただ――
「む」
 空蝉の気配の変化に、久遠が眉を寄せた。
 ゆらりと空気が渦巻く。
 切れた頬の傷が、割れた指先が、光っている。
 内なる鬼の力が、空蝉の小さな身体に満ちていた。
 この感情の名を彼は知らない。
 護りたいと願う、その心に呼応して、札は輝きを増した。


 夜明けの訪れを錯覚させるほどの光と同時に、地響きが山を覆った。


「なんだ?」
 竜を繰っていた斎が、気配に振り返る。
 あの先には、山吹と空蝉がいる。
「行こう」
 最後の白鬼から朱棍を引き抜くと、飛車丸は駆けた。不吉な予感が拭えない。眉間に刻まれた皺は、過去の凶事に思いを馳せていた。


 巻き起こった土煙は、まだ周囲を覆っていた。
「空蝉!」
 山吹が叫ぶ。
 光が走ったのは、空蝉が向かった方角だった。
 あの鬼と出会ったのか。山吹は無意識に歯噛みした。
 砂が目に入って、よく見えない。夜の闇も、それに拍車をかけた。袖で口を覆い、山吹は歩を進めた。
 木立の合間に、見覚えのある後姿を見つける。
「空蝉!」
 山吹が空蝉に駆け寄った。
「山吹様……」
 空蝉が呟くように言った。
「すみません、鬼を、逃しました……」
 砂塵にまぎれて、空蝉の姿がよく見えない。それでも、山吹は駆けた。ゆっくりと崩れる空蝉の身体に手を伸ばす。預けられた体の軽さに、山吹は息を呑んだ。
「あ、あ……」
 知らず、言葉が口から漏れる。
 空蝉を抱きとめたまま、ぺたりと座り込んだ。
 ない。
 闇の中、目をこらすように山吹は見た。
 何度見ても、少年の下半身が見当たらない。
 山吹は震える手で空蝉を抱き締め、叫んだ。
「馬鹿者!」
 空蝉の体から破片が零れ落ちる。
 半身を失った少年の体は木から灰へと変わって行く。その命は急速に失われつつあった。
「なぜ私を呼ばぬ!」
 絶え絶えの息の中、空蝉は山吹を見上げた。
 怒っている。
 目に涙を一杯に溜めて、今にも泣き出しそうな顔をした山吹がそこにいた。
「だって」
 空蝉は言った。
 山吹を映す瞳が細められ、口の端が上がった。
「だって、山吹様、鬼を嫌うておる」
 困ったような顔で、空蝉は笑った。
 出来るなら、鬼の存在を山吹に知られたくなかった。見せたくはなかった。出来なかった。
 空蝉の言葉に、山吹の瞳が見開く。
「ば、かもの……」
 ぽろぽろと零れ落ちる山吹の涙が頬に当たる。気持ちいい、と空蝉は思った。
 薄れるような意識の中で、山吹を見つめる。
 泣いている。
 私はこの方を笑わせたいのに、叶わぬのだな。
 ぼんやりと、そう思った。
 泣かせて、怒らせてばかりだ。
「やまぶきさま」
 空蝉の手が、山吹の頬に触れた。流れる涙をそっと拭う。
「一つだけ、約束させてください」
「なんだ」
 涙を振り切るように、山吹は答えた。これ以上泣かぬようにと唇を噛み締める姿を見て、空蝉はまた淋しく思った。
「何時か――」
 山吹の後ろに、斎の姿が見えた。この方をお願いします、と心の中で告げる。飛車丸と、その内にいるであろう酒天にも、同様に声をかけた。
 一度目を閉じ、開けると、満天の星空が見えた。月光に山吹の鮮やかな色の髪が映える。
 綺麗だ。
 息を吐くように一気に告げた。


「何時か、貴女が、己が人の身の無力さに涙することがあるなら、その時は――醜いこの身を晒すことをお許し下さい……」


 空蝉の最後の言葉は呪となって、山吹に届いた。
 言葉に押されたかのように、山吹の頬を涙が滑り落ちる。空蝉の指はもう動かなかった。
「うつ、せみ……?」
 木から成るその体が、崩れてゆく。命を失った木片は、灰へと変わって行った。
「空蝉、空蝉!」
 山吹が抱き締めたのを契機に、空蝉の全てが灰となった。
 抱き締めた山吹の腕の合間から、灰が零れる。零れた灰は、風に乗り、周囲を巡った。
「山吹ちゃ……」
 声をかけようとした斎を、飛車丸が朱棍で制した。目が合うと、無言で首を振る。


 名残を惜しむように山吹を撫でた風は、やがて空へと消えた。


【其ノ拾四・終】

  表紙


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