手首に走る痛みに、久遠は無意識のうちに眉を顰めた。
あの少年の形をした木偶が札を叩きつけて来た瞬間、久遠は彼の全てを灰に帰すつもりだった。
木を手折るなど、たやすいこと。薄ら笑いを浮かべ、少年を迎える。
途端にまばゆい光が走り、久遠は片腕で目を覆った。光の元は、少年が手にした札だ。射るような光が、少年の無機質な瞳に反射する。
小癪な……
扇を繰り、少年を討とうとした刹那、少年の袖から、するりと小さな竜が飛び出た。扇を持つ久遠の手に噛み付き――狙いが逸れた。
半身を飛ばされた少年は落ち、自分はその場を後にしたのだけれども。
「竜か」
久遠が唇を舐める。
足早に進むと、久遠の身体はやがて宙に浮いた。
そこに道があるかのように駆けて行く。
行き先は、竜宮。そうと決まっていた。
其ノ拾伍 「滅び行くもの」
降る降る郷。
かつて竜が下り落ちたと言われる場、それが竜宮だった。
竜の血の恩恵を受けている一族がその地を守護する。当代の当主と見込まれた斎が去って後、弟である辰信は粛々と長としての勤めを果たしていた。
奢ることなく、溺れることなく。
「辰信様、お茶をお淹れしました」
環がかしこまりながら、障子を開ける。所作にあわせて、束ねられていた長い黒髪がさらりと揺れ、肩から落ちた。
中で書き物をしていた辰信は、顔を上げた。
「ありがとう、環」
「また書き物をなさっていたのですか」
あたりに散らばった書面を見て、環が驚きの声をあげた。当主を継いでからというもの、辰信は何かに憑かれた様に筆を走らせていた。
「うん」
辰信は書物に目を落とし、ずれた眼鏡をかけ直した。
「私には、兄上のような才はない。いずれまた、竜宮にもそういう者が出てくるだろう。そういった者でも竜を呼べるよう、私の知識を書き連ねているんだ」
しみじみと述べながら、辰信は目を細めた。
「辰信様はご立派です」
環が盆を胸に抱きながら言う。
「ありがとう」
辰信が苦笑しながら、筆を手にした。
こういった心境になったのは、跡目を継いだからではない。
『お主が勝ち得た力だ。そうだろう』
今まで、誰からもそう言われたことはなかった。
彼女の名は、なんと言ったか。
確か、山吹。
真っ直ぐに己を射る様に見る娘だった。
辰信の目が和らぐ。筧の音を合図に、再び筆に手を伸ばすと、また紙面と向き合った。
◆◆◆
「いつまでそうしている気だ」
先に口を開いたのは、山吹だった。
空蝉が消えた場所に、せめてもの墓標を作った。その前に立ち尽くして、数刻が経とうという頃だった。
「山吹ちゃんこそ」
木にもたれた斎が頭を掻く。
山吹がその場にいる限り、己もそこを動く気はなかった。狐の手当てを終えた飛車丸も、木陰に座っている。
「……私は、泣かぬぞ」
拳を握り締めるようにして、山吹は言った。
「あれは、生きようと思えば生きられたのだ。それを……」
己を封じている器が壊れた。空蝉は、出られたはずだ。本来の姿に戻って。
けれど、そうしなかった。
あの仮初の身体と共に滅ぶことを選んだのだ。
あるいは、山吹がそこにいることで、鬼の姿になることをためらったのかもしれない。
「……馬鹿者が……」
山吹が震える声で言う。その手には、空蝉が持っていた鈴が握られていた。潰された鈴が鳴ることはもうない。
唇を噛み締めた山吹が、くるりと振り返る。
「行くぞ!」
言うや否や、足早に歩き出した。
「行くって、どこへ」
斎が呆れながらも歩き出す。
「知れたこと、あの鬼を討つ!」
桜花が入った行李を担いだ山吹は、もう振り返らなかった。悲しみを怒りに転化しようとしているようだ。
「って、どこ行ったかもわかんないだろうに」
溜息をつく斎に、飛車丸が告げた。
「今は動いたほうが良いのだろう」
立ち上がり、朱棍を手にする。
「行こうか」
飛車丸が言うと、斎は大袈裟に肩をすくめた。
「あー、はいはい。お姫様の言う通り」
仕方なさそうに頭を掻いて、歩き出す。数歩進んだところで、気配を感じ、振り向きかけた。
狐の寝宿、その傍にある梅の木の下で、少年が佇んでいる。
ゆっくりと頭を下げる、その姿が見えるようだと斎は思った。
飛車丸と山吹を見やる。二人とも、気付いているはずだが、歩を止める気配はない。
斎は、別れを告げるように片手を上げた。
Copyright(c) 2011 mao hirose all rights reserved.