筆に墨を含ませ、紙面に走らせる。
聴こえくる清流のせせらぎだけが、辰信に時の流れを告げていた。
ふと、その手が止まる。
心に湧き上がる違和感。
それを認める間もなく、環が駆け込んできた。
「辰信様!」
「うん、わかってる」
ことりと筆を置く。
一息吐き、立ち上がる。その目には、竜宮当主としての覚悟の光があった。
辰信自身に、鬼と戦った経験はない。
それだけ、斎の守護は絶対だった。誰よりも早く鬼に気付き、誰よりも早く駆逐する。幾度となく翁からその話を聞かされても、飄々とする斎を前にすると本当だろうかという疑念が拭えなかった。
鬼の気配とは、こんなに嫌なものか。
ざわめくような心持に、辰信は嫌悪感を抱いた。
斎の不在時には、紫龍の加護が常に竜宮を包んでいた。
己は常に誰かに守られていたのだと、痛感する。
「竜宮には入れさせぬ、環」
「はい!」
声をかけて足を早めると、環が応えた。
竜宮の地を駆け抜ける。
その先に、鬼がいた。
その鬼は、人の形をしていた。
藍染の衣に、白銀の髪。額から突き出た二つの角は、三日月のように歪な形をしている。
「人型……」
環がこくりと息を呑む。
翁に聞いたことがある。鬼にも種類がある。獣を模すもの、異形を好むもの。中でも、人の形を好むものは、賢く、残酷であることが多いと――
「この先は、竜宮の地だ」
辰信が凛と告げた。
環が辰信を見上げる。涼やかな瞳には、恐れのかけらもない。環は、怯えかけていた自分を叱咤した。
「立ち去るなら、追わぬ。踏み入れると言うのなら」
「言うのなら?」
鬼が嗤った。ぞっとするような笑みだった。
「払う!」
辰信の手から巻物が投げられる。中空に輪を描いた巻物は、次の瞬間、竜へと変化した。墨竜と呼ばれる、黒の竜だ。
「花竜、出ませい!」
環が花をあしらった簪を抜く。散る花弁が竜の鱗となり、簪を咥えた薄紅色の竜が現れた。
「竜使い……竜宮縁の者だな」
久遠が喉の奥で嗤う。
疼く腕の痛みすら、心地良い気がした。
地が割け、岩が砕ける。
衝撃を受けた辰信の身体を松の木が受け止め、撓った。
「ぐ……う!」
呻きながら、辰信がずり落ちる。割れた眼鏡の欠片が零れ落ちた。
傷ついた竜が、姿を保てず巻物へと戻る。力なく落ちる書の流れを、辰信は視界の片隅で認めた。
強い。
霞むような視界の中で、辰信は鬼を見た。
人型をした鬼は、まるで傷ついた様子はない。息一つ乱さずに、己を見下げている。薄笑いの中、覗く舌が不吉なまでに赤い。
兄上は、いつも、こんな――
辰信の脳裏に、斎の姿が過ぎった。
次代の主として、期待をされ続けた斎。鬼を払うために、請われればどこへでも向かった。その口から、鬼退治の話を聞くことはほとんどなかった。
辰信は、無意識に歯噛みした。
己と兄の差が、そこにある気がした。
久遠が扇を振るう。疾風が刃となって辰信に向かった。
「辰信様!」
環が辰信の前に躍り出た。両手を広げ、立ちはだかる。
辰信が我に返る。
環の華奢な身体、その体躯が縦に裂かれた。鮮やかな血が、花のように散る。力を失った白い手が、崩れるように落ちた。
「環……!」
辰信が叫ぶ。
「環、環!」
その身体を、腸を抱きとめる間に、久遠が歩み寄った。
「なぜだ……」
まだ温かい。
呻くように、辰信は言った。
「なぜ、鬼は人を殺める」
久遠は嗤った。
「お前達も、花を手折り愛でる。違いはあるまい」
「な……!」
辰信が絶句する。
その眼前で、久遠が扇を掲げた。
主の不利を察した紫龍が久遠に向かう。
それを見た久遠は、薄く嗤った。
「竜風情が」
扇が振り下ろされる。
その風音は、竜宮の終わりを告げていた。
瞬間、斎は足を止めた。
己の内から起きる崩壊感、その感覚に足を止めたのだ。
「斎?」
山吹が振り返る。飛車丸が立ち止まった。
斎が崩れ落ちるように膝を着く。
花弁がひとつひとつ剥れ落ちるように、心が割れる。そこに開いた穴を埋めようもない。
ただならぬ感覚が斎の全身を満たした。
「どうした!」
山吹が駆け寄ると、斎は手を震わせていた。
「紫龍……」
あの竜が死んだ。
竜宮の系譜を見守り、守護してきたあの竜が。
心を削ぎ落とすような喪失感で、斎はそれを知った。
そして。
「斎……?」
飛車丸が怪訝な顔をする。
斎は己の手を凝視した。
常に絡み飛んでいるはずの竜が、見えなかった。
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