鬼神法師 酒天!

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其ノ拾六 「残されしもの」




 降る降る郷。
 流るる星の如く、下るは竜。
 降る降る郷。
 神代より続く、その祠に、人に還れ。



 空が茜色に染まる。
 澄み渡るような紅、その裾野には夜の気配が漂っていた。まばゆいばかりの夕陽に、影絵のように景色が映し出される。
 懐かしい、竜宮だ。竜宮のはずだ。
 まだ燻る煙と、立ち込めるような死臭が、斎の顔を歪めた。
「これは……」
 山吹が言葉を失った。
 斎の異常を察し、飛車丸と共に駆け戻ること三日。竜宮に近づくにつれ増す悪寒を振り払うように足を早めてきた。相変わらず竜を使役できない斎は桜花の背に乗せた。常人より遥かに早く、ここに辿り着いたはずだ。
 それが。
 山吹はもう一度目を見張った。
 これが、あの竜宮だろうか。
 女房達が笑いさざめき、祭りでは人の多さに閉口した。渓流のせせらぎ、庭に咲いた椿の見事なこと。
 その雅さや賑やかさに、斎が育っただけあると妙に納得したものだ。
 それが。
 道すら、残っていない。
 瓦礫と土砂が一面に広がり、本殿は焼け崩れ跡形もない。
 かろうじて焼け残った柱はまだ熱を持っている。喘ぐ姿のままに焼かれた人は炭と化し、風がその身を持ち去っていく。宙に向かって突き出された手は、無念の象徴に思えた。
 飛車丸はすぐに丘を駆け下りた。まだ息のある者がいるやも知れぬと言われても、山吹はその場に立ち尽くした。そんなものがいるとは、到底思えない。
 しばらく呆然とした後、山吹は恐々と視線を隣に立つ斎に移した。
 さしてこの地に縁のない己でも衝撃を受けたのだ。斎はさぞや、と案じた。
 群青の法衣を纏った斎は、山吹の横で背筋を伸ばしたまま立っていた。
 顔から笑みが消えている。
 それでも、泣いているわけではなかった。
 碧い瞳が、故郷の終末を映している。まるで見逃すまいとするかのように、斎の視線が周囲を彷徨った。
 何度か見渡した後で、一度眼を閉じ、息を吐く。
「斎……」
 耐えかねた山吹が声をかけると、斎は少し微笑んだ。
「行こうか、アイツを手伝わないと」
 飛車丸が瓦礫の中から遺体を抱き上げるのが見える。山吹は頷くと同時に駆け下りた。

 黒く炭化した本殿の柱を除ける。まだ熱を持っていることに気付いた斎は、無意識に唇を噛んだ。
『若』
 幾人かの屍を拾ったところで、斎の耳に届く声があった。
 斎が手を止め、辺りを見回す。
「爺か」
『左様』
 声は明瞭に聴こえるにも関わらず、翁の姿は見当たらなかった。
「言霊を遺したな」
 斎が呟く。
『紫龍が死に申した』
「知っている」
 だから己の能力も消えたのだと、斎は言った。紫龍を護れなかったことで、竜達は愛想を尽かしたのだろう。
『辰信様、環様も』
 二人の名を聞いた瞬間、斎の目が見開いた。
「……そうか。そう、だろうな」
 近づく鬼を駆逐するのは当主の役目だ。辰信達が民を置いて逃げるとも思えなかった。
『仇の名は―――あの鬼の名は』
 爺の言霊が斎にその名を告げた。
 久遠。
 つい先日会った、あの鬼だ。
 空蝉を屠った、あの鬼だ。
 斎が固く拳を握り締める。
『若、爺は無念でございます』
 翁の声が斎の周囲を巡るように響いた。「斎様」「斎様」と追随する民の声まで混ざるような気がする。
 錯覚だ、と斎は己に言い聞かせた。ぶるりと首を振る。
「俺は竜宮を捨てた人間だ」
 呟くように言った。
「民の亡骸は弔う。それ以上は求めるな」
『若……』
 翁の声が遠のく。
 斎は目を閉じた。
 じっと、翁の気配が去るのを待つ。
 やがて一陣の風が吹いた時、ようやく息を吐いた。二、三度眼を瞬かせて、それから再度柱に手をかける。瓦礫の合間に眼をやった。
 救いを求めるように、手が突き出ている。
 柔らかな、女の手だ。
 かろうじて手首に纏わりつく衣で、そこに埋められたのがいつも斎を出迎えていた女房だと知れた。
 斎は表情を動かさぬまま、その手を取った。ふくよかで冷たい感触が斎を迎える。
 身を出そうとすると、するりと腕だけが抜けた。獣に食まれたような跡が腕にも衣にもついている。唾液と思しき液体が、斎の手に伝った。懐紙を出して、拭きとる。己の手も、女房の手も。それから、簡単に懐紙に包むと、腕をその場に置いた。
 頭を掻き、周囲を見渡す。
 飛車丸と山吹が、それぞれ遺体を葬っているのが見えた。
 他に生きているものの気配はない。
 人も、竜も、皆失せていた。
『若の意思は竜の意思、何人にも縛られませぬ』
 かつて贈られた言葉が、斎の中に木霊した。




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