鬼神法師 酒天!

  表紙



 夜が明け始めた頃、三人はようやく腰を降ろした。
「ひどいもんだな」
 他人事のような感想を漏らす斎に、山吹は厳しい視線をくれた。
「爪痕や傷が複数ある。鬼を使役する者の仕業か」
 焼け残った柱を眺めた飛車丸が呟いた。
(あいつに決まってんだろが)
 久遠の姿が過ぎる前に、己の内で毒づく酒天の声に苦笑する。
「あのお〜」
 遠慮がちにかけられた声に、三人は一度に振り向いた。
 そこに、男が居る。どこかの村人なのだろう。仕立てが良いとは言えない衣は、繕った跡がいくつもある。土に汚れた足は、しばらく洗っていないようだった。
「おら、隣の村のもんだが、あんた、斎様でねか?」
 男は不躾に尋ねた。
「ああ、そうだが」
 斎が頷く。男の顔が、見る間に明るくなった。
「無事だったべか! 良かった!」
 斎の手を取り、飛び上がり、それから我に返ったようにうなだれた。
「あ……良くはねか」
「気持ちは嬉しいがね」
 用件を掴みあぐねた斎がはにかむ。男は、眉根を寄せて言った。
「おらの村とこで辰信様と環様を預かってますだ。斎様、どうか来てやってくだせぇ」
 斎の表情が強張る。その瞬間を、山吹は見逃さなかった。

 男の案内で隣村に向かう道すがら、男はひたすらに何があったのかを喋っていた。
 曰く、竜宮へ至る道の手前である己の村の傍に鬼が現れたこと。
 曰く、辰信と環が善戦空しく散ったこと。
 曰く、農作業に出ていた己は偶然それを目撃したこと。
「鬼は、おらが村なんかどうでもええようで、そのまんま竜宮に向かっただ」
 思い出すと鳥肌が立つのか、男は両腕を擦った。
「無事で何よりだ」
 飛車丸が言うと、男は何度も頷いた。
「おら、一度鬼に見つかりかけたんだ。だども、竜宮の爺様が逃してくれただ」
 そして翁は己のために死んだと。
 その話を聞いても、斎の心は動かなかった。この男を自分への伝言役として残したのだろう、爺のやりそうなことだと、ぼんやり思った。
 やがて村の姿が見え始めると、男は小走りに駆け出した。
「おらが村の一番いい家にいてもらってますだ。こっち、こっち」
 大きく手を振り、村の中を案内する。まばらな田畑に、飛び交う鶏の声。特徴があるわけでもないこの村が栄えずとも滅ばずに済んだのは、竜宮の恩恵だろうか。
「ここですだ」
 男が庄屋の家を指差した。
「旦那様、斎様をお連れしましただ」
「なんとなんと」
 男の声を聞いた庄屋が、家の奥から飛び出してくる。
「これは斎様。このような場所に……」
「挨拶は結構」
 手を付きかけた庄屋を、斎が制した。
「縁の者が世話になっていると聞いた」
 息を吐くように告げると、庄屋が慌てて立ち上がった。
「はい、奥の間に、お二人とも」
 こちらでございます、と摺り足で廊下を抜ける。斎はその後に従った。
「お付きの方も、こちらでお休み下さい」
 玄関で立ち尽くす飛車丸と山吹に、庄屋の妻が声をかけた。湯気の立つ茶を、二人に差し出す。
「お付きの方……?」
 山吹の片眉がぴくりと動く。
「まあ、そう見えるかな」
 飛車丸が穏やかに告げた。
「いただきます」
 片手を立てて、礼を述べる。温かな茶は、人の温もりにも似て、飛車丸の喉を潤した。


「こちらでございます」
 最奥にある部屋の前で、庄屋は立ち止まった。
 脇に下がり頭を垂れるのを見て、斎が歩み出る。
「私は、あちらに居ります。なにかあればお声をかけて下さい」
 元来た道を指し、庄屋が言う。その言葉に斎は頷いた。足音が遠のくのを待ち、障子を開ける。
 二人が、無言のままに斎を迎えた。純白の布団に横たえられた身体全体に、白布がかけてある。大きな布をかけられているのが辰信で、小柄なほうが環だろう。
 顔も覆われている為、見当をつけるしかなかった。
 それでも、そこにあるものが二人なのだと、斎にはわかった。
 幼年から共に過ごした仲である。見まごうこともなかった。なかったが故に、斎は、しばらくそこに立ち尽くした。
 死んでいる。
 翁が言霊に遺していた。知っている。
 否、己はそれより前に予期していたはずだ。
 竜宮を去る、その時に。
 次代を辰信に譲ると決めた、あの時に。
 鬼と対峙するが当主の定め。
 その責は辰信に重くなかったか。環がいればどうにかなると思ったのか。
 薄暗い予感を、見なかったことにしようと決めたのは己なのだ。
 無意識のうちに、斎は拳を握り締めた。
 やがて、その手が動き出す。
 ゆっくりと、環の顔を覆った布に。
 布地に指が触れようとした時、どこからともなく声がした。
『どうか、そのまま』
 環の声だ。
 柔らかな気配と共に、手の甲にそっと添えられる指先を感じる。
 途端に、感情が洪水のように斎を呑んだ。
「すまない」
 斎は告げた。
 震える手を握り締め、膝を折る。崩れ落ちる身体を支えるように、両手を着いたその姿は、二人に詫びているようにも見えた。
「すまない」
 一度口を開くと、零れる涙は止めようもなかった。
「俺の、せいだ……!」
 当主の座と共に、竜宮を捨てた。
 あの時己は何を考えていたか。
 食いしばった歯の合間から嗚咽が漏れる。
 煩わしいと思っていた、全て。
 斎は頭を抱えた。立てた爪が、皮膚に食い込む。
 こんな結末を望んでいたわけではなかった。
 竜宮は己がいなくとも栄えると思った。
 辰信なら、環なら、うまくやるだろうと。
 鬼を駆逐し、民を護り、竜を崇め、これまでと同等に、遜色なく。

 本当に――?

 脳裏を掠めた声に、斎の涙がすっと引いた。
 呆然と顔を上げる。
 二人の亡骸が眼に入る。
 この結末を望んだわけではなかった。
 けれど、心のどこかで予測したのではなかったか。
 辰信が、環が、鬼に打ち勝ち続ける。
 それを信じたのか、願ったのか、否、己は。
 斎は唇を噛み締めた。
 知っている、何も考えはしなかった。
 己のことだけを思い、残される者のことなど考えはしなかった。
 どうにかなるだろうと勝手に思い、結果がこれだ。
 涙する資格などない。
 顔を歪めたまま、斎は二人を見続けた。
 深い悔恨の情だけが、押し寄せる波のように彼を苛んだ。



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