人類文明機械式
第3幕 【オイル】油:老いる
ヒトはパンのみで生きるにあらず。
キリスト語録でしたか?違いますかね。
さて、「なんの為に生きるのか」老婆の問いに答えたヴァンガッシュ。
彼は以前にも同じ問いを受けたことがありました。唯一生きている彼の脳、その記憶がたぐり寄せられます。
回想は巡る。
それはまだ、あの忌まわしい黒雲が世界を覆う前のお話――――――――
ヴァンガッシュには愛した女性がおりました。彼女の名前はアマルダ。
聡明で美しい彼女をヴァンガッシュは盲目的に愛しておりました。しかし不運な事故で彼女の体は深く傷ついてしまったのです。主要な器官へのダメージがひどく、死期も近い。ヴァンガッシュは考えました。
どうしたら彼女を助けられる――――――――
彼は医者ではなく、まして宗教者でもありませんでした。心を救う術もない。彼が操れるのは唯一機械。それだけだったのです。彼は彼女の為に体を用意しました。
鋼で出来たからくりの体を。
驚くほど緻密に、そして精巧に出来た彼女に生き写しのアンドロイド。
後は彼女の脳を移すだけで、彼女は生き続けられるのだとヴァンガッシュは喜びました。
だから、彼女がそれを見て、寂しげに首を振った時、ヴァンガッシュはなにが起きたのか理解がしきれませんでした。
「私には、できないわ。ごめんなさい」
ヴァンガッシュは、それを、その言葉の意味を履き違えました。
自分ひとりで機械にはなりたくないと、そういう意味だと思ったのです。その頃はまだ、全身アンドロイド化する人々は少なかった。だから、そうなのだと彼は自分に言い聞かせました。そうでなければやりきれなかった彼の心中をお察しください。
彼女に生きていて欲しい。
一人で機械の体になるのがいやなら、それが当たり前の世界を作ってやろう。
そうして彼はあの黒雲を作り出しました。絶え間なく降り続ける、命あるものを腐らせるその雨。これで皆、同じ体になる。恥ずかしくないだろう、だから大丈夫だと彼は思っていたのです。それが純粋な心のなせる業か、それとも彼はすでに狂っていたのか、私には判断がつきかねます。
そして結果は皆様ご存知の通り。
世界を黒雲が覆い、森は死に絶え、海は腐り、人々は機械化していきました。
ヴァンガッシュが喜んだのも束の間、なんと彼女は最後まで首を縦に振ることはありませんでした。
「心の問題よ。ヴァンガッシュ」
ベッドに横たわりながら穏やかにそう告げた彼女の言葉は、機械となったヴァンガッシュの脳へ信号に変換されて伝わりました。
「心ならここにある。脳が生きていれば、ヒトの思考は死なない」
「心は脳にはないの」
「馬鹿な。思考の神経回路が組まれているのは脳だけだ」
「ああ、ヴァンガッシュ。私の為に全てをなくしたあなた。あなただけが私の心残りだわ。いつか私の心が届けばいいのだけれど」
「いつかなんて日は来ない。生きてくれ、アマルダ」
「私は生きているわ」
「これから死ぬ」
「これからも、あなたの心に生きているわ」
二人の会話は平行線でした。
「最後にもう一度太陽が見たい」と呟きながらアマルダは息絶えたのです。
外には黒く重く糸を引く、果てない雨が降り注いでいました。
アマルダの細く白い手を握りながら、ヴァンガッシュはただ悲嘆に暮れました。彼女との世界に涙はいらないと思ったから、そんな機能はつけなかった。手を握っている、それは視覚で認知できる。触覚も再現されてる。体温が下がっていくのもサーモグラフィーで確認できる。
それはなんとも味気ないデータでした。心の慟哭に体がついてこないそのもどかしさ。
ヴァンガッシュは、黒い雨に打たれながらただ歩いていました。
生身で触れれば腐り行くその雨は、彼女の為に降らせたものでした。
『私の為に全てをなくしたあなた』
あんなに困り果てた顔でそういうのなら、なぜ生きてはくれなかったのか、彼にはわかりませんでした。世界が死のうとそれでも構わないと願った男のただひとつの願望は、あっさりと裏切られたのです。
それからしばらくして、彼は知りました。
彼女が自分に内緒で、自分の子供を産んでいたことを。
その子は彼女の遺言のまま、自然回帰派によって育てられていること。
ヴァンガッシュは自然回帰派への説得を続けました。
「生きていればなんとでもなるじゃないか」
自然回帰派の答えはいつもこうでした。
「その状態を生きているとは思わない」
「命は命として、あるべき姿のままに」
老婆の乾いた唇からすべりでた言葉に、ヴァンガッシュの脳は回想をやめ、あれから150年という時間の流れた今に還って来ました。
自分の三分の一も生きていないはずのこの老婆の言葉に、かつてと同じ壁を感じながら。
「チェルサン、頼む」
ヴァンガッシュは言いました。
膝を折り、崩れ落ちるように両手を床につけ、チェルサンを見上げながら。
「機械化手術を受けてくれ。僕にはもう、君しかいない」
老婆は、目の前で頭を垂れる男をその重い瞼を押し上げるようにして見ました。
ヴァンガッシュの娘は、母親と同じく首を縦には振りませんでした。
ヴァンガッシュは、彼女が育ち、恋をして、やがて妻となり母となり、老いて死ぬ様を見届けました。
「お父さん、あなたを私も置いていく」
最後の時を迎えながら、娘はそう言いました。
「知っていたのか、父親だと」
「ずっと」
くしゃくしゃの老婆になった娘ははにかむように微笑みました。それはかつて彼女が16の頃、ヴァンガッシュに恋の相談をしたときの微笑を回想させました。
ヴァンガッシュの娘は、彼女の母親がそうであったように、一人の娘を残して逝きました。
娘の名は、チェルサン。
ただいまヴァンガッシュの安楽椅子に座る老婆にございます。
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