人類文明機械式
第4幕【ネジ】部品:歪み
チェルサンは、すでに大方の視力を失った老いた瞳で自分の祖父を見ました。母親がこっそり教えてくれた、彼と自分たちの関係。彼がかつて愛したのだという自分の祖母。守るように自分のそばにいたのだと告げた母。皆彼を置いて逝ってしまった。そして自分もそうしようとしている。母達の遺志に殉じたいわけではなく、それが自然だとチェルサンは考えていました。
人は死ぬ。順当な理由などどこにもなく、ただ死ぬ。
土に還り、やがて木々が屍を糧に芽吹く、そこに巣を作る鳥達、捕食者が現れて、そしてまたその捕食者も誰かの糧になり、命は巡る―――――――――
チェルサンは、ホログラムでかつて緑が輝いていた世界を見たことがありました。
美しいと、いたく感動したのを覚えています。しかし、今日の黒い雨が降り注ぐこの世界では、チェルサンの屍が還るべき大地すら朽ちていました。
「あなたは、もう、私のかけらにすら会えない…」
憐れみをこめてチェルサンは言いました。
「還るべき大地を、あなたが失くしてしまった」
「還らなきゃいい。生きればいい」
「ヴァンガッシュ、人が生きるのは、いつか必ず死が来るとわかっているからよ。人は永遠には耐えられない。心が朽ちてしまう」
「馬鹿な…!」
「人は皆還る場所を探している。だから皆動くのをやめたのよ」
ヴァンガッシュは言葉に詰まりました。
生きるために機械の体を手に入れたはずの人々の中では、近年自殺者が爆発的に増えていました。自殺というのは正しくないかもしれませんね。破壊行動、とでも申しましょうか。
過激な者は、自らの脳を保護するコーティング膜の全てを剥がして黒い雨にうたれて死にました。あるいは回線を引きちぎって意図的にショートさせた者もおります。
自らを傷つけることにためらいある者は、ただ、動くことをやめました。
脳が死んだかのように、糸が切れたマリオネットのように、そこにあるだけの存在になることで、なにかを守ろうとしたようでございます。
それもやはりヴァンガッシュには理解しがたかった。
彼らがそうし始めたきっかけが、本来の肉体であれば寿命を迎えた年齢であることに気づいても、それを無視しました。
もちろん、ヴァンガッシュと同様、活発に動き続ける者もいました。
そのどちらにも当てはまらない大半の者は、思考が死んだかのように感情が消えていきました。動いてはいる。泣きもするし、笑いもする。しかしその感情の底が浅い。表情に幅がなくなり、声に抑揚がなくなり、精巧なアンドロイドの方がまだ感情表現豊かだとする者もいました。
心が、朽ちていったのです。
人の脳のあずかり知らぬところ、心と呼ばれるその機能が、ゆっくりと何かに蝕まれていきました。あるいは黒い雨の粒子が分子単位で浸食したのかもしれませぬ。
「ヴァンガッシュ…」
老婆はヴァンガッシュの若い体を見ました。自分が子供の頃から変わらぬその姿。
「私達が置いていくのではないわ。あなたが立ち止まっているだけ」
「死ぬというのは、どこかに還る事じゃない、チェルサン。ただ消えるだけだ」
「それのどこが悪いの」
「生きて欲しいと願ってどこが悪い!」
ヴァンガッシュは思わず叫びました。
ただひたすらそれだけを願って現在に至るというのに、今また、命が手をすり抜けようとしている。それは彼にとって耐え難い葛藤でした。
「…チェルサン、頼む…!」
ヴァンガッシュの言葉に、チェルサンは静かに首を振りました。
平行線な話し合いのまま、ヴァンガッシュは疲れたというチェルサンを寝かしつけ、チェルサンの家を後にしました。地下通路を歩いていて、ふと、外を見ようという気になりました。
黒く腐り果てた大地に、漆黒の黒雲から絶望の雨が絶え間なく降り注いでいました。
機械化した人々があちこちに放心状態で座り込んで、その肌の色だけが、唯一景色の中で明るかった。
荒涼としたその風景を、ヴァンガッシュはただ見ました。
彼とて自然が嫌いなわけではなかった。公園の木々、アマルダの笑顔の向こうの青空、囁きと共に聞こえた波の音、記憶に残るそれら全ては愛おしく、大切なものでした。それでも、引き換えにしても惜しくないと思ったものは手から零れてしまった。
彼の緻密な脳は必死に考えて続けていました。
ヴァンガッシュの悲しいところは、彼の性格にあったと私は思います。
ねぇ?じれったく思いませんか?
そんなに生きていて欲しいなら、アマルダ達の意思など無視をして手術をしてしまえば良かった。
けれど彼にとって、それは出来ない相談でした。
彼女達を愛していた。だからその意思を尊重したかった。
しかし、もう彼に残されたのはチェルサンだけです。
その向こうに確実な孤独を突きつけられたヴァンガッシュの心に何かが囁きました。
生きていく?この世界でただ一人?
黒くねとつく雨は絶え間なく降り注ぎ、ヴァンガッシュの皮膚コーティングの上をオイルのように滑っていきました。
僕は待った。
もう十分、待った。
黒い雨に打たれ続けたヴァンガッシュの目に、暗い光が宿りました。
あるいは彼の弁護をするならば、そう、黒い雨の分子が、彼の脳に滑り込んだのかもしれません。ああ、嫌な雨ですね。
荒涼とした世界は人の心を映すべく、今日も見事に朽ちております。
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