人類文明機械式

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  第5幕【ヒューズ】遮断:火花  

 ヴァンガッシュが、その体についた全ての雨の粒子を洗い落とし、再びチェルサンの前に現れた時、チェルサンもすでに何事かを覚悟しているようでした。いつもの安楽椅子に座りながら、ちらりとヴァンガッシュを見たチェルサンは、彼の瞳に宿る意思を見て取って、ただ微笑みました。
「チェルサン、僕はもう待たない」
 ヴァンガッシュの声を心地良さそうに聞いて、チェルサンはそのしわしわになった口を開きました。
「私はずっと不思議だったわ」
 ヴァンガッシュが怪訝そうに眉を顰めます。チェルサンの安楽椅子がきしりと音を立てました。
「どうして、おばあちゃん達が何もかもを知っているのか、いつもとても不思議だったわ。悪戯をしても、必死に秘密を隠しても、どうしてだかばれてしまう。なぜだろうと、いつもとても不思議だったわ」
「チェルサン」
 チェルサンが何を言おうとしているのかわからないヴァンガッシュは、焦れたように声をかけました。
 チェルサンに無理矢理にでも手術を受けてもらう。彼はそう心に決めていました。
「ヴァンガッシュ、私はおばあちゃんになったわ」
「僕の孫だ。最後の家族だ」
 ヴァンガッシュはただチェルサンを見ました。

 自分よりもずっと若い体を持つ自分の祖父。
 成長しない体のまま、心までどこかで動きを止めてしまった。
『あの人は優しくて愚かな人』と言ったのはチェルサンの母親でした。今ならその意味がわかる気がするのはなぜでしょう。

「だから、あなたの考えていることがわかる」
 年老いたチェルサンが顔をくしゃくしゃにして笑うのを見て、ヴァンガッシュは思わず胸に手をやりました。痛んだはずのそこは、しかし生身でないことを思い出し、どこかでアマルダが笑っているような気もして小さく唇を噛みました。痛むわけがないと自分に言い聞かせます。
「これは地上に残った最後の命」
 チェルサンが取り出したのは小さな小さな植物の種でした。あの雨を奇跡的に生き残り、長いこと自然回帰派によって守られてきた植物の種子。自分の爪の半分にも満たない種子のなんと小さなこと。
 チェルサンはそれを愛おしそうに見つめると、自分の口の中に入れました。
「チェルサン…?」
 ヴァンガッシュは、チェルサンがなにをしようとしているのかわかりませんでした。
「私は、あなたの家族として」
 チェルサンが傍にあったコーヒーカップに手を伸ばしました。
 その仕草を目で追ったヴァンガッシュの瞳が、異常を捉えるのにかかった時間は1秒にも満ちませんでした。
 黒い液体をたたえたカップに近づくにつれて、チェルサンの手が朽ちていく!
 カップの中はあの雨が入っているのだと、ヴァンガッシュは直感しました。
「チェルサン!」
「あなたの罪をいただきましょうね」
 チェルサンは一気にその黒い罪の塊を飲み干しました。
 チェルサンの手が、口が、食道が、胃が、見る間に朽ちていきます。
「馬鹿なことを!」
 ヴァンガッシュが駆け寄った時、すでにチェルサンの体の中は溶けていました。ヴァンガッシュが体を支えようとするはしから崩れ落ちていきます。
「私を土に還して」
 チェルサンはヴァンガッシュに告げました。
「あんな場所に!」
「埋めなければダメよ、ヴァンガッシュ」
 そうしなければ命は巡らない。
 それがチェルサンの最後の言葉でした。


 どれくらい、そうしていたでしょう。
 ぐずぐずに腐り落ちたチェルサンの体、ヴァンガッシュが彼女の体を支えていたはずの手には、黒く汚れきったコールタールのような液体が残るのみでした。
 それを見つけたのは偶然だったのか、モニターの精度のおかげか、はたまたチェルサンの遺志なのか、私には判断がつきかねますが、それでも彼は見つけました。
 チェルサンの体の名残、その黒い液体に混じって、侵食されずにいる植物の種が手の内に残っていることを。

 
 それからヴァンガッシュはいかにしてその種を芽吹かせるかに心血を注ぎました。おっと、もう血はありませんでしたね。失礼。
 しかし、すでに大地も朽ちた後。根を張り、芽吹かせるには、相応の有機物が必要でした。それは無理な注文というものです。ヴァンガッシュもそこで行き当たりました。
「有機物か…」
 機械からそれを生み出すことは出来ません。ヴァンガッシュは困ったように頭を掻きました。
 頭を掻いて、そう、それはそこにあることに気づいたのです。
 しばらく頭に手をやったまま、ヴァンガッシュは動きを止めました。
 そうして微笑んだ彼の顔は、かつてのアマルダやチェルサンの最後の笑顔にも似ていたと申します。

 彼はただただ機械を作り続けました。
 雨を止めるための機械。
 その後自分を手術する機械。
 そして、私。
 ただひたすらに彼は作り続けました。
 彼には、時間だけはあったのです。
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